2004年8月2日掲載


はじめに
8月上旬は,青森ねぶた祭り,山形花笠祭り,仙台の七夕祭りと,東北の夏祭りが続きます。
Sawaが小6だった'85年8月に青森観光を兼ねて「ねぶた祭り」見学の小旅行をしました。

写真40 青森ねぶた (Sawa小6年,母32歳)
 
日本の火祭り”青森ねぶた”は、毎年8月2日から7日まで、全国・世界各地から当時でも320万人を超える観光客が訪れるそうです。
 昭和55年、国の重要無形民俗文化財に指定された”青森ねぶた”は,歌舞伎や歴史・神話を題材に勇壮で華麗に作られるそうです。
写真41 ハネト
 「ねぶた」という人形の灯籠と合わせて、祭りを盛り上げているのは,色とりどりの衣装を身にまとった「ハネト」と呼ばれる踊り手たちでした。
 写真のように影が長く伸びる夕方になると,どこからともなく大勢集まってきて,抑えきれないエネルギーが一気に溢れだし、祭りは最高潮に達しました。
写真42 八甲田山雪中行軍遭難後藤伍長銅像

 古来戦争の勝敗は気候に左右されることが多く,寒地の軍隊は防寒防雪対策が重要であったそうです。
 旧陸軍第5歩兵連隊第2大隊の八甲田雪中行軍は途中猛烈な吹雪と寒気により210人中199人が凍死する大惨事となったそうですが,その猛吹雪のなか、ただ一人,遭難現場に仮死状態で立ちつくし,捜索隊に遭難現場を知らせるための標識の役割を果した後藤伍長の銅像が建っていました。
 その歴史を偲び,責任感についてSawaと話し合ったことが思い出されます
写真43 長生きのお茶
 後藤伍長の銅像が建っているか十和田八幡平国立公園の北端、標高五百四十メートルの芝生のような萱野高原にある萱野茶屋は、長生きのお茶が無料で飲めるとあって好評でした。「一杯飲むと三年長生きし、二杯では六年、三杯飲むと,なんと死ぬまで生きる」というお茶でした。
 家族3人3杯飲んだのですが・・・・・・。、
写真44 宗方志功記念館
”わだばゴッホになる”
「ゴッホにならおうとして上京した貧乏青年はしかし。
ゴッホにならず。
世界の。
Munakataになった。」
と書かれた草野心平さんの言葉が目にとまりました

 1903(明治36)年に青森に生まれた棟方志功は、生きていれば100歳。
72歳で亡くなるまで、生来の視力障害をのりこえて 一途に制作に励み続けたその人生に感慨深いものがありました。
写真45 青函連絡船大雪丸
 青森,函館間を3時間50分で結ぶ青函連絡船は1日9便運行されていましたが,Sawaがこの時乗船して2年7ヶ月後の1988年,青函トンネルの開業とともに廃止されてしまいました。

2004年8月13日掲載

はじめに
 平成2年(1990)の夏,Sawaの家族は北海道の最北端,稚内方面に小旅行をしました。
 海岸線は強い風が吹いていて,真夏だというのに肌寒く感じましたが,人も街も温かく忘れられない思いでです
 対岸にはサハリンの島影が見え,周辺には様々なモニュメントが建ち並び、国境の街として稚内の歩んできた道のりを垣間見る事が出来ました。

日本最北端の地の碑
 宗谷岬の先端、北緯45度31分22秒の“日本最北端の地”を標す記念碑。
北極星の一稜をモチーフに、中央には北を示す「N」、台座の円形は「平和と強調」を表しているそうです。
 海に向かってこの地に立つと、前三方が海、正面に43Km先のサハリンの島影が浮かび上がり、日本の最北端であることを実感させられます。
(Sawa高校2年,母38歳)
写真47 間宮林蔵の立像
 初めて日本から樺太に渡り、樺太が島であることを発見した探検家、間宮林蔵の偉業をたたえた立像。
「自分が,もし,生きて帰ってこなければ線香の一本でも手向けて欲しい・・・、」と,この時,林蔵は郷里から持ってきた自分の墓石を海岸に建て、命懸けの覚悟をしていたと伝えられています。
林蔵は、世界地図に日本でただ一人「間宮海峡」という日本人名を残しました。
祈りの塔
 昭和58年(1983年)ニューヨーク発アンカレッジ経由ソウル行きの大韓航空機が樺太(サハリン)沖のモネロン島上空で、ソ連戦闘機のミサイル攻撃により撃墜され、乗員乗客合わせて269名が死亡してしまいました。
 祈りの塔は,この「大韓航空機撃墜事件」の遭難者慰霊と、2度と悲しい歴史を繰り返さぬよう世界の恒久平和を願って建てられたモニュメントです
九人の乙女の碑
 終戦直後の昭和20年(1945年)8月20日、ソ連軍による樺太真岡侵攻の最中、勤務する真岡郵便局の交換台を最後まで守り、 「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら・・・・・」の言葉を残し,自らの命を絶った9人の若き女性交換手の慰霊碑。 昭和38年に建立された,この慰霊碑には亡くなった9人の名前が刻まれていましたが、その時の彼女達の心情を思うと熱い思いがこみ上げてきました。
南極観測樺太犬記念碑
 昭和32年(1957年)日本が初めて参加した南極観測の物資輸送を目的に、稚内周辺から集められた樺太犬20頭の犬ぞり隊が編成されました。
 犬ぞり隊は稚内公園で厳しい訓練を受け南極大陸に派遣されたそうでが,南極の悪天候を克服出来ず、15頭の樺太犬が現地にやむなく置き去りにされるという悲劇が起こりました。
 その1年後,再び越冬隊が南極を訪れた時、タロ、ジロの2頭が奇跡的に生き延びていたという感動的なニュースは、当時世界中に報じられ,やがて「南極物語」という映画にもなり、多くの人達に感動を与えました。
写真はジロをモデルとしたブロンズ像で、台座には南極で採取された真っ白な石が埋め込まれていました。
氷雪の門
 樺太で亡くなった人々の慰霊と、異国になってしまった樺太への望郷の念を込めて昭和38年(1963年)に全国から寄せられた暖かい支援によって建立されたそうです。
 雪と氷の中でたくましく生き抜いた人々を象徴する2.4mのブロンズ像と望郷の門。 ブロンズ像の肩越しに遠くサハリンの島影を望むことが出来ました。
日本最北端の店
親子連れや稚内を訪れるライダー達で賑わっていました。
電光掲示板の温度計が 16.5℃を示しています。

2004年8月28日掲載

はじめに
 Sawaの家族は,平成14年8月に積丹半島を中心に小旅行をしました。30歳を目の前にした息子が親と一緒に旅行してくれる幸せを感じかがらも、そのうち結婚し家庭を持ったら、「こんなこと出来ないなー」と、内心では思っていました。
 しかし,この旅行が私達にとってSawaとの最後の旅行になるとは夢にも思いませんでした。

神威岬(かむいみさき Sawa28歳,母49歳)
 ここが積丹半島の先っぽ。岬の先端までは、駐車場から遊歩道を約20分近く歩きます。
(「カムイ」は、アイヌ語で神のこと。
 絶景の地には、よく「カムイ」という言葉が冠せられていますが,どこまでも青い積丹の海,そこに突き出た神威岬。アイヌ民族が神の住む神聖なるところととして奉った様子がわかるような気がしました。
キタキツネの「コン太」
 神威岬の駐車場で見かけた,このキタキツネに,Sawaは「コン太」と名付けました。
水中展望船・ニューしゃこたん号
 ガラス張りの船底から海底の様子を目の当たりにして,積丹の魅力を体感しました。船上から望む数々の奇岩やロマンあふれる伝説に彩られたダイナミックな海岸線、船底のガラス越しに海中を泳ぐ魚やウニが手にとるように見えます。
 しかし,ウニの餌となる海草類が少なく,話に聞いていた「磯焼け現象」についてSawaは強い関心を持ったようでした。
雷電海岸
 R229号線は,青く澄んだ日本海と奇岩・大岩が点在し、多くの入り江と断崖絶壁の続く海岸線です。Sawaの後ろに見える鋭く尖っている奇岩は「刀掛岩」と呼ばれ,弁慶が太刀を掛けたと言い伝えられている岩です。

「忍路(おしょろ)、高島およびもないが、せめて歌棄(うたすつ)、磯谷まで〜」

ニシン漁が華やかなりし頃の蝦夷地の様子を詠った江差追分の一説です。
 忍路、高島は小樽市に、歌棄、磯谷は寿都町に現在も地名が残っており、その昔、江差からニシンを追って漁場を北上させ、積丹半島を迂回して余市、小樽まで行っていたことがこの歌詞からうかがい知れました。

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